カップ麺と褪せた背表紙

人間的であったり非人間的であったり、一般的であったり限定的であったりするようなことを、不定期に書いていきます。

シャワーを浴びる

以前、密かに執筆・公開していたエッセイ作品を、このブログに移植します。

今後も同様にエッセイや短編小説など、こちらのブログに公開するかもしれません。

 

2017年 7月 初出

 

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 だんだんと意識を取り戻していく。閉じた瞼を徐々に開き、時計を見、肺に溜まった空気を吐き出す。
 何度抱いたか分からない、絶望とも諦めとも言えない感情に身体を支配される。何度目を覚まし、何度体験しようとも、この感情だけは嫌なものであることに変わりない。きっとこれからも幾度も味わい、その度に自分と自分以外の全てを憂うのだと思う。
 時計の短針はほぼ直上を指し示し、カーテン越しに主張する太陽の明るさもそれを保証している。六月二十九日、午前十一時半。もう正午になろうという時刻に、今日もまた、俺は目覚めた。

 身体を起こす気になれず、ベッドの上で何度か寝返りをうつ。意識はだいぶ明瞭になってきているが、かと言ってすぐに行動を開始できるわけではない。結局どの体勢も落ち着かずに、目覚めた時と同じ位置に身体を戻した。
 昨晩眠りに就く前にセットした目覚まし時計のスヌーズは、その動かしにくさに何度も声を荒らげた硬い硬いスイッチまでご丁寧に切られている。おそらく目覚まし時計は何も悪くない。正常に動いたのだろうが、無意識下の俺が耳障りな電子音に耐えきれずにスイッチを切ったのだろう。指ではどうしようもできないほどに硬いそのスイッチには、くっきりと歯型が付いている。

 ベッドから顔を覗かすのも面倒で、腕だけを下ろして散らばった自室の床から使い込んだスマートフォンを掴み取る。イヤホンと充電コードが絡まっていたが、フルに充電されていたのでそちらは抜いて元の場所に投げ戻した。
 起動させると、いくつかの通知が届いていた。ソーシャルゲームのスタミナ回復を知らせるもの、インスタグラムでの投稿に付いたいいねを知らせるもの、その他いくつかラインのトーク通知等。
 端末のロックを外しラインのアプリを立ち上げる。クラスのグループにテスト範囲の張り紙が写真に撮られて送信されていた。確かにあと半月ほどすると夏休みだ。ということはそろそろ期末テストの時期なのだろう。なんとも他人事のように考えてしまうが、結局は自分にもそのテストを受験する義務がある。どうにかしなければいけないのは確かだが、具体的にいったいどうするのかと言われてしまうと全く答えられない。テスト勉強をしようという気にはならないし、ならば素直にテストを受けて白紙で答案を提出するのかと言われるとそれも嫌だ。何が嫌なのかは分からないけれど、どちらにせよ嫌だ。噛み砕いて言えばそれはストレスだ。そもそも勉強をして得点を取るという段階の前に、まずはテストを受けに登校しなければならない。それすらおぼつかない今の俺は期末テストについて思いを巡らす資格も必要もないだろう。

 スマートフォンの画面の光を浴び、学校とそれに対する自分の在り方について考え、もう既に目と脳は完全に冴えている。身体の方は、脚の曲げ伸ばしや寝返りに重さを感じる。どうやらまだまだ起きてはいないようだ。
「ああ・・・っ」
 意味もなく声を出してみるが、それで何が変わるわけでもない。本当に無意味なことしかしない生活を送っているのだということを更に深く感じてしまい、むしろ悪影響でしかない。
 適当にツイッターを起動させてタイムラインを眺めるが、これっぽっちも面白さを感じない。「面白くない」というどうしようもないことに対して苛立ちを募らせ、どうしようもなく無意味であることに思い至って結局、自分の生活全てが無意味だということに考えが至る。

 最近考えることはこればかりだ。これ以外に考えていることは無いのかと訊かれると困ってしまう。これ以外のことは考えられなくなっている。何かないかと周りを見回してみると、ベッドのシーツにシワが寄っていて不愉快だと気づいた。

 高校三年生に進級してからまもなく三ヶ月が経つが、もう一ヶ月以上高校に通っていない。それ以前も不定期に、週に二日ほど行っていただけだった。欠席した日のうち全てを、今日と同じように不快な目覚めによって始めている。
 一方で、コンビニ店員のアルバイトとゲームセンターの音楽ゲームはしっかりと続いている。それらは学校に行く時間帯にすることではないから、というのもあるだろうが、それにしても高校生という立場にいる人間としては無責任な行動だろう。学生の本分は登校し勉学に励むことであって、労働でも娯楽でもない。そこをわきまえていない行動は学生として酷く矛盾したもので、馬鹿馬鹿しいものだと言えるだろう。
 しかし、勉強は嫌いだが、学校そのものが嫌いなわけではない。友人は多くいる。友人は僕に活力を与えてくれる。優しくしてくれる。面白くしてくれる。学校に行っていないということは、高校生として社会に所属していないということであり、つまり人間との関わりが極端に減るということだ。かつて正常に通学していた頃には鬱陶しく感じた対人関係だが、いざ人間と触れあうことに飢えてみるとなんとも素晴らしいものに感じられる。他人がいるからこそ、自分を保てるのだと思う。情けない話だ。

 学校に行かず、進路も決めず、ただ親の脛を齧ってベッドの上で堕落な人生を歩んでいるだけの存在。こんな人間に何の意味があるのだろう。何の理屈があって今この命を生きているのだろうと本気で考えている。
 例えば今ここで死んでみるとしよう。俺がしていることと言えばスマートフォンをいじることかコンビニ店員のアルバイトかゲームセンターの音楽ゲームかくらいのものだから、社会的に迷惑がかかることはアルバイトのシフトに穴を開けることくらいしかなく、それもどうにかなる範疇のことだ。もちろん悲しんでくれる人はいるだろう。家族、友人、親戚、恋人、いくらでも思い浮かぶ。しかし他人の感情を揺さぶった程度で何になる。俺が欠けたことで動きを鈍くする歯車はあれど、別の歯車が止まってしまうことはない。時計全体の動作に支障は無い。
 つまりは、今のこの生に意味も価値もありはしないということだ。それはベッドシーツのシワと同じくらいあっけなくて、簡単で、無意味に消し去ることの出来る存在だ。

 こう考え始めてしまうともう全く前向きな思考に持っていくことは出来ない。途中でやめにして別のことを考えなければ、最悪の場合、実際に自殺してしまうだろう。
 と言ったように長々と考えている間も、俺はスマートフォンソーシャルゲームをプレイしていて、それはほとんど脳を使わない単純な作業なので、ますます俺の人生から意味を奪い取っていくように感じる。
 俺がすることの中で意味があることはどれほどあるのだろうか。食事、睡眠、排泄、入浴、どれをとっても「命を保つ為に必要な行為」でしかなく、無意味な命を保つ為の行為はすなわち無意味だと言えるだろう。運動も勉強も読書も同じだ。「命を保つ為」なのか「命を充実させる為」なのかの違いしかない。充実したところで無意味は無意味。そこに意味が追加されるわけではない。
 だんだんと熱を帯びてきたスマートフォンを握り、画面を睨みつけながら堂々巡りの思考に身を委ねていた。

 家の中からは物音は聞こえず、おそらく家族全員がこの家にいないことを示していた。
 いつからか両親は毎朝俺を起こして学校に行かせることを辞め、俺に求めることも「いい大学に入りいい企業に就職してもらいたい」というものから「生きていてくれさえすればそれでいい」というものに妥協していた。諦められたということだろうか。期待するだけ無駄で無意味なのだろう。全く親孝行の出来ない自分が情けなくて悔しくてどうしたらいいのか分からない。これ程に無意味な存在は死んでしまったほうが親を楽にできるのではないだろうか。当然悲しみはするだろうけれど、必要になる金が一人分減るのだ。おそらく自殺は俺ができる親孝行のうち最も簡単で現実的なものだろう。
 ベッドから這い上がり、キッチンへ向かう。他の家族が朝七時頃に摂ったものと同じであろうメニューの朝食が、ラップをかけられて置いてあった。トーストと、サラダと、焼いたウインナー、それとカットフルーツの入ったヨーグルト。栄養バランスを良く考えている母親は、毎朝このようなメニューの朝食を家族全員ぶん作る。おそらくここまでバランスの取れた朝食を毎朝食べられる家庭はそう多くないだろう。そう考えると俺は非常に幸せ者で、その幸せ者の人生を無意味で無駄なものに変換しているのも俺で、つまり俺はとんでもない愚か者だということだ。
 起き抜けにすぐ朝食を摂れるほど健康的な胃や口を持っていない俺は、とりあえずコップに水を汲んで飲み干した。
 寝起き特有の口の中の粘着感を洗い流した俺は、朝食には触れずに次は洗面所へと向かう。大きな鏡に映った自分と目を合わせることは避け、水道水で顔を洗う。小さく溜息をひとつ吐き、タオルで濡れた顔を拭き、今度は手を濡らして跳ねた髪を直す。どうせ後でシャワーを浴びるのだが、寝癖のついた髪型は自他問わず嫌いだ。
 今度はトイレに行き、そしてベッドに戻る。倒れ込むようにして身体を楽にする。何をするわけでもなく天井と時計を見つめ、そのうち無意味な思考に取り憑かれそうになる。考えれば考えるほどに自分と自分以外の全てが嫌いになっていくこの思考だが、今俺が直面している状況は俺の無意味さについて答えを出さないと打破できないものだ。何をしようにもこの考えが後を付いて回り、どんどん追い込まれていくばかりだ。
 しばらく先程と同じ内容の思考を巡らせて、ふと時計を見つめる。短針だけでなく長針までもが真上を指し示そうとしていた。無意味に三十分も経過させてしまったことに気づき、再び絶望とも諦めとも言えない例の感情に身体を支配された。

 今の生活をするようになってから、就寝前に入浴を済ませる習慣がなくなってしまった。誰かが「入浴して後悔することは無いのだからいくら面倒でも思い切って入浴すべきだ。」と言っていた。全くその通りだと思う。それでも入浴できない。心の底から面倒なのだ。動きたくない。
 しかしずっと入浴しないというわけにもいかない。身体は汗でベタついてくるし、臭いだって強くなる。それで翌日起床した後にシャワーを浴びてから行動を開始するような生活習慣に変わったのだが、別に時間が変わったからといって面倒でなくなるわけではない。必要に迫られてシャワーを浴びているだけなのだ。
 ベタついた身体を布団の中でくねらせ、気持ち悪いなぁと思いつつ、今日もまた動けない。深く溜息をついて、目を閉じて唸り声を出す。唸り声を出しても何も変わらないが、例の思考に囚われるほうが嫌な思いをする。声を出して反抗する。
 しばらくして、結局自分の行動の無意味さに思い当たる。本当に何をしても無意味だ。何もかもが嫌になってしまう。
 面倒ではあったが、嫌な感情を取り払うために結局着ていた服を洗濯機に放り込み浴室に入った。当然風呂は沸いていないのでシャワーのみだ。浴槽に張った適温のお湯に浸かって身体を伸ばす方がよほど心身ともに楽になるのは理解しているが、いちいち沸かすのは面倒なので結局シャワーだけになってしまう。もう一ヶ月以上もお湯に浸かっていないのではないだろうか。誰の言葉だったか「風呂は命の洗濯」とはよく言ったもので、つまり今の俺の命は一ヶ月ぶんの汚れがこびりついてグチャグチャになっているということだ。機会があればゆっくりと入浴したいと、シャワーを浴びるたびにほぼ毎回思っている。
 身体全体を濡らし、髪を濡らし、シャンプーを手に取り泡立て髪を洗う。泡を洗い流した後、トリートメントをして、リンスをする。洗顔フォームで顔を洗い、カミソリでヒゲを剃り、ボディソープで身体の垢を落とす。
 何故か知らないが、浴室というのは心の防壁が取り払われてしまうものだ。いつもなら心の中で思うだけのことも、声に出て言葉になってしまう。しかし感情を外に放出するのは案外身体を軽くしてくれるもので、浴室から出る頃には洗い流された汗と合わせて非常に心地よい気分になっている。
 バスタオルで身体を拭き、髪を拭き、とりあえずパジャマを着て、今度は先程スルーした朝食を準備する。シャワーを浴びると身体が楽になって、行動がすみやかになると思う。自分のことながらてきぱきとした動きに感動してしまった。

 午後になってから摂ったその朝食を全て食べ終わり、食器を洗い再び自室に戻る。スマートフォンを手にしてツイッターを眺める。そしてふと、時計を見る。既に午後一時半になっていたことを知り、つまり今から登校したところで間に合わず、今日も学校に行けなかったと、絶望とも諦めとも言えない感情に身体を支配される。本日三度目のそれは、何度経験しても同じだけの嫌悪感を伴っており、自業自得とはいえ本当に気持ち悪いものだった。
 学校の友人達はテスト勉強に励んでいるのだろうが、俺は今日も特にやるべき事を見出せずに、無意味な一日を終えるのだと思う。何度も何度も繰り返した、無意味で同じようなどうしようもない日々。無意味を繰り返すことは、命の価値を削ぎ落としていくどうしようもない行為だ。
 無意味から抜け出せずにどうしようもなくなったこの俺の人生に意味を与えてくれる何か、それが現れるのを俺はただ、待ち続けている。