カップ麺と褪せた背表紙

人間的であったり非人間的であったり、一般的であったり限定的であったりするようなことを、不定期に書いていきます。

かいけつゾロリのむげんれっしゃ

みなさんだいぶお久しぶりです。平舘です。

全くブログを書いてなかったというわけではないのですが、書いている途中で納得がいかなくなったり、筆を休ませているうちに旬をすぎてしまったりと、下書きに書きかけが積み重なってゆくばかりです。

これを書いているのは2020年の大晦日の午前1時頃なのですが、この記事はもう今日中に書き上げて絶対に投稿してやります。もう先に言っときます。良いお年を。



それでこれは僕が小学生の時の話なんですが、学校に通う男の子の多くは図書室で「かいけつゾロリシリーズ」の本をよく読んでいました。シリーズの本はいつも人気で貸出中であることが多く、その当時の図書室のトレンドといえば「かいけつゾロリシリーズ」だったのでした。

特に低学年の頃はシリーズの人気たるや凄まじいもので、体感では同学年の男子のほぼ全員がかいけつゾロリを読んでいたのではないかというほどです。

しかし残念なことに僕はその人気についていけませんでした。小学校に上がりたての頃はかいけつゾロリの存在を知らず、どうやら大人気らしいということに気付いたのは1年生ももう後半に差し掛かっていた頃だったと思います。

もちろん大変に興味が湧きました。僕も読んでみたい。友だちとゾロリの話題で話したい。そんなふうに強く思ったはずです。しかし僕は、20歳の今に至るまでかいけつゾロリシリーズは全く読んだことがないのです。

小学生の頃の僕がゾロリを知ったのは周囲よりも少し遅れてのことでした。興味は湧きましたが、それでも僕は思ったのです。「今更まわりに流されてゾロリを読むのは、ミーハーな感じがしてダサい」と。

人気作で図書室で借りるのが難しかったり、1作目から順に読んでいきたいけどそれには冊数が多くてハードルが高かったり、そういった要因もありましたが、最も強い理由は「今更興味あるなんて言い出すのはダサい」というものでした。「ゾロリになんて興味無いぜ」とスカして宮沢賢治を読むのがカッコイイと思っていたのです。

ちなみに高学年になるとハリーポッターも流行りますが、これは分厚さに躊躇して読みませんでした。小学生の目には、あの背表紙は辞書くらい厚く見えますから。

かいけつゾロリに限った話でもなければ、小さい頃に限った話でもなく、この「○○するのはダサい」という考え方は今の僕にもまだ続いています。その○○をしている人のことをダサいと思っているのではなく、○○をしようとする自分だけをダサく思ってしまうのです。様々な可能性を潰すような損な考え方だという自覚はあるのですが、染み付いた考えはなかなか抜けずにいます。

まあゾロリを読まない程度の損失だったら別にいいんですが、この考え方のせいで、他人に悩みを打ち明けたり、1人だと難しいことを手伝ってもらったりするのを躊躇してしまうことがとても多く、かなり大きめの実害が発生しているのです。自分ひとりで何とかしなくちゃいけない。人に助けてもらうのはダサい。そう考えてしまって、結局自分ひとりでは何もできない。そんなふうに自分の首を絞めてばかり、どんどん状態は悪い方へとシフトして……

そういう八方塞がりの状況の方がよっぽど「ダサい」というのは頭では分かっているんですけどね。無駄に外聞を気にしてしまうというか。キョロキョロビクビクしているのが1番ダサいんですから。

そんな、俺は一体何やってんだろうな、という想いです。

こんな性格のせいで、鬼滅の刃も読めていません。今更水の呼吸とか言うのダサくない?